すきなものごと

毎週金曜日、21:00更新。車いすダンサーです。HP:watername.net

非在の言前

言葉にたいする、もやもやとした違和感に「こういうことか!」とおもったのは、丸山圭三郎さんの本を読んだときです。題は、丸山さんの本より。

非在、が存在になる過程に、「言葉になる(言葉にする)」があります。いまはすべてのものに名前がついていて、たとえば誰もみたことのない昆虫が発見されたとしたら、名前がつきます。彗星とかもそう。名前が与えられて、実体として扱われ、カテゴライズされる。

言葉はものにつけられた名称ではなく、認識を区分けする(作り変える)ものだということを、丸山さんはどの本でも繰り返し繰り返しいってます。語り口や切り口は違うけれど、だいたいおんなじこといってます。それがなにをもたらすのか、のあとの乗り越え方はいくつかバリエーションありますね。

この方、ソシュール研究をしていて、ソシュール(フランスのひと)が文献書かないひとだったので、死後弟子たちがまとめた講義録を「そういうことじゃねえよ」と再編し、それが本国で認められた、というハードコアな方です。やさしい言葉で書いてる本もありますけれど、いかんせん内容が………。起承転結が、「ホップ、ステップ、ジャンプ、着地!」ではなく、「ホップ、ステップ、き、消えた!?」みたいな感じ。思考の足取りをたどるのに、何度も読み返してやっと理解できました。シニフィエ、シニフィアン、って、語呂がいいからかそこかしこでつかわれてますけれど、ソシュールが使ってた言葉です。

親しみが湧いたところでつづけますが、たとえばなにかしらの表現に対して、この過程よりまえ、「非在」のときに、なにもないのか。

言葉は、ありもしないものをつくりだします。
 
飛行機がない時代に、「鉄のかたまりが空を飛ぶ」といったら、頭がおかしい人だとおもわれたとおもいます。だけれど、飛行機をイメージしたひとがいて、イメージがやがて実体になった。

イメージも思考も、言葉で出来ています。ダンスも音楽も絵画も言語だとおもっているのですが、かたちをもつまえのそれは、どこからうまれるのでしょう。かたちになる過程で、なにが失われるのでしょう。

たぶんだけれど、日本の昔の文化では、非在の言前を、いまよりずっと、そのもの、としてあつかっていたんじゃないかな。方丈記がとてもすきなのだけれど、古典である、という付加価値がなかったら現代ではきっと、売れないです。

行く河は絶えず流れ、しかも元の河(水?)に非ず。諸行無常、の意味合いもたぶん、いまとはちがったものだったのだろうとおもいます。言葉が残っていたとしても、文化が変われば読み取られる意味が変わる。わたしがイギリス文学を読んでも、身体感覚としては理解出来ないのと、おなじようなかんじで。

それでも100年やそこらで、完全に失われるようなものではないな、というような確信もあります。もののあはれ、を、英語で説明出来ない(難易度がとても高い)のと、おなじようなかんじで。

こういうのって、言葉で羅列するとただの、説明になってしまうから。いつか表現でできたらな〜とゆうのが、目下の夢です。非在の言前におよびうる表現って、かなり高度なものだとおもうので……がんばる……!おわり。

○。きょうの一曲。○
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アルバム創の、出だしから赤橙くらいのながれが最強すきだった…!