「壁の向こうには、ちいさな動物たちがいるんだよ。」
壁のこちら側で、秋色の葉っぱをふみしめながら、彼はつぶやいた。真っ白な髪の毛と、皺を刻んだ白い肌。長い時間をかけてゆらいだまなざしは深い色をしていて、みつめていると、とてもおおきいものをながめているみたいだった。海をながめる、って、こういう感じなのかもしれない。
「ちいさな動物たちって、どんなのがいるの?」
あたしの背丈では彼の肩に手が届かない。だから手をつないで、片方の手で壁をさわりながらすすんでいた、
「わからない、みたことがないから。」
きのう、髪の毛を顎の下できりそろえてもらった。うしろは短くして、ながくすると首が、ちくちくするから。真っ黒で真っ直ぐだねと、銀色の鋏を手繰る指先のかたちを、見なくてもわかっていた。だからつま先で足元に、おちてゆく髪の毛をゆらしていた。
「みたことがないのに、ちいさな動物たちってわかるの、」
「そう言い伝えられているから。」
足元の秋色の葉っぱをつま先でゆらした。壁はひんやりと冷たくて、空は抜けるように青かった。あたしには、思い出せないことがとてもたくさんあった。
「ふうん」
「そのちいさな動物たちにはね、なまえがついているんだ。」
あたしはあたしのなまえを知らない。彼は彼のなまえをしらなくて、あたしは彼のなまえの一部分を知っている。彼があたしのなまえを知っているかどうかは、知らない。
「どんななまえなんだろうね、」
「本に書いてあるはずだよ。」
「うん、でも、いいや」
空気を吸い込んで、その色になまえをつけた。だけれどつけたなまえは、端っこからほどけていってそこには、残るものがなかった。ここでは全部がそういうふうで、こんなにしんとしているのに。
「すごくむかしから、この壁はここにあるんだ。ちいさな動物たちは、こちら側のものに触れたら死んでしまうんだ。とても弱い生き物だからね、
だから守るために、この壁を作ったんだそうだよ。」
「でも、なまえがついているんだよね?」
「そう。」
からだの向きをかえて、両手で壁にふれて耳をつけた。ちいさく息遣いが聞こえるような気がした、だけれどそれらはすぐに見えなくなった。
「あたしね、」
「うん。」
「みずがあるんだとおもうの、このなかに」
「そうかもしれない。」
「だって、風がこすれるみたいな音がするもの、」
彼も壁に耳をつけると、しばらくのあいだそこは、とても静かになった。かさかさと音が流れるけれどそれははんぶんくらいずつ、見えるもののと見えないものが混じっていた。
「こういうの、なんていうんだっけ、」
「どういうの?」
「そこにそれがいる、みたいな感じ、」
「気配、かな。」
「うん、それがね、あるんだけれどたぶん、」
耳はつめたい壁に触れて、すっかりつめたくなってしまった。彼はやっぱりしんとしたひとみで、すこし斜め下をただとらえていた。
「よわいいきもの、じゃなさそう、」
ゆっくりと、笑顔になる様子はいつでも、カーテンのむこうにゆれるあわいひかりみたいだった。あたしたちはならんで、元のところに、もどってゆくのだった。
-----------------
壁が壊れたときいたときにだから、かわらずに暖炉のそばで本を読んでいた。読める文字と読めない文字がある、石飛ばしみたいに、あいだをとばしてならんでいる文字たちは、水流がわかればうかびあがる。それに夢中になっているとあっという間に時間が過ぎていって、そこにある全部の気配がきえてゆく、
だけれど壁の向こうに、あった気配はそうではなかった。あたしには、見なくてもいいものが見えて、見なくちゃいけないものが見えない。だけれどだから、たまにぴったりとした正解が、わかることがあるのだった。
空の色はいつも、おなじように青かった。風はいつでも、すこしだけ冷たいままだった。めぐるものがひとつもないのだ、秋の色の落ち葉もきっと、いつも同じように落ちている。ちいさな動物たちの気配には、ゆれるものがまじっていた。
そのことも、忘れてゆくのだろう。すこしずつ、そのことの言葉がはらはらと、ほどけてゆくのがわかったから。ちいさな動物たちのなまえを、見つけるための水流はどんなものなんだろう。ページをたぐりながらカーテンの、むこうにゆれるあわいひかりを感じていた。