すきなものごと

不定期で金曜日、21:00更新。車いすダンサーです。HP:watername.net

ちいさな動物たち(短文)

「壁の向こうには、ちいさな動物たちがいるんだよ。」

壁のこちら側で、秋色の葉っぱをふみしめながら、彼はつぶやいた。真っ白な髪の毛と、皺を刻んだ白い肌。長い時間をかけてゆらいだまなざしは深い色をしていて、みつめていると、とてもおおきいものをながめているみたいだった。海をながめる、って、こういう感じなのかもしれない。

「ちいさな動物たちって、どんなのがいるの?」 

あたしの背丈では彼の肩に手が届かない。だから手をつないで、片方の手で壁をさわりながらすすんでいた、 

「わからない、みたことがないから。」

きのう、髪の毛を顎の下できりそろえてもらった。うしろは短くして、ながくすると首が、ちくちくするから。真っ黒で真っ直ぐだねと、銀色の鋏を手繰る指先のかたちを、見なくてもわかっていた。だからつま先で足元に、おちてゆく髪の毛をゆらしていた。

「みたことがないのに、ちいさな動物たちってわかるの、」

「そう言い伝えられているから。」

足元の秋色の葉っぱをつま先でゆらした。壁はひんやりと冷たくて、空は抜けるように青かった。あたしには、思い出せないことがとてもたくさんあった。

「ふうん」

「そのちいさな動物たちにはね、なまえがついているんだ。」

あたしはあたしのなまえを知らない。彼は彼のなまえをしらなくて、あたしは彼のなまえの一部分を知っている。彼があたしのなまえを知っているかどうかは、知らない。

「どんななまえなんだろうね、」

「本に書いてあるはずだよ。」

「うん、でも、いいや」

空気を吸い込んで、その色になまえをつけた。だけれどつけたなまえは、端っこからほどけていってそこには、残るものがなかった。ここでは全部がそういうふうで、こんなにしんとしているのに。

「すごくむかしから、この壁はここにあるんだ。ちいさな動物たちは、こちら側のものに触れたら死んでしまうんだ。とても弱い生き物だからね、

 だから守るために、この壁を作ったんだそうだよ。」

「でも、なまえがついているんだよね?」

「そう。」

からだの向きをかえて、両手で壁にふれて耳をつけた。ちいさく息遣いが聞こえるような気がした、だけれどそれらはすぐに見えなくなった。

「あたしね、」

「うん。」

「みずがあるんだとおもうの、このなかに」

「そうかもしれない。」

「だって、風がこすれるみたいな音がするもの、」

彼も壁に耳をつけると、しばらくのあいだそこは、とても静かになった。かさかさと音が流れるけれどそれははんぶんくらいずつ、見えるもののと見えないものが混じっていた。

「こういうの、なんていうんだっけ、」

「どういうの?」

「そこにそれがいる、みたいな感じ、」

「気配、かな。」

「うん、それがね、あるんだけれどたぶん、」

耳はつめたい壁に触れて、すっかりつめたくなってしまった。彼はやっぱりしんとしたひとみで、すこし斜め下をただとらえていた。

「よわいいきもの、じゃなさそう、」

ゆっくりと、笑顔になる様子はいつでも、カーテンのむこうにゆれるあわいひかりみたいだった。あたしたちはならんで、元のところに、もどってゆくのだった。

 

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壁が壊れたときいたときにだから、かわらずに暖炉のそばで本を読んでいた。読める文字と読めない文字がある、石飛ばしみたいに、あいだをとばしてならんでいる文字たちは、水流がわかればうかびあがる。それに夢中になっているとあっという間に時間が過ぎていって、そこにある全部の気配がきえてゆく、

だけれど壁の向こうに、あった気配はそうではなかった。あたしには、見なくてもいいものが見えて、見なくちゃいけないものが見えない。だけれどだから、たまにぴったりとした正解が、わかることがあるのだった。

空の色はいつも、おなじように青かった。風はいつでも、すこしだけ冷たいままだった。めぐるものがひとつもないのだ、秋の色の落ち葉もきっと、いつも同じように落ちている。ちいさな動物たちの気配には、ゆれるものがまじっていた。

そのことも、忘れてゆくのだろう。すこしずつ、そのことの言葉がはらはらと、ほどけてゆくのがわかったから。ちいさな動物たちのなまえを、見つけるための水流はどんなものなんだろう。ページをたぐりながらカーテンの、むこうにゆれるあわいひかりを感じていた。