満たされていなかったことを、わたしは知らなかった、
空っぽの器は空っぽのままで、それはそういうものだったからだ。
水面に波紋が、揺れるように、
ひとしずくずつ、水滴が器に、溜まっていく感触に怯えた。
やわらかく、あたたかいそれが、換えの効かないものだとわかったから、
似たものを探した、化学の実験みたいに、同じ条件でおなじことが起こるはずだと、思いたかった。
おなじものがどこにもないのだと、降伏にも似た気持ちで戻ったわたしを、
あのひとは一言も、責めなかった。すこし無理をして作った、笑顔だけがひたひたと、器を満たしていた。
なにかを、諦めたのだと思う。歯止めが効かなくなったのかもしれない。
わたしたちは前にも増して、たくさんくっついて、たくさんのことを話して、いくつもいくつも、夜を過ごした。
わたしにとってずっと、夜は甘いものだった、
致死量の猛毒というのは、甘いらしい。もちろん舐めたことはないのだけれど、その味をもしかしたら、とてもとても、薄めたみたいに。
いまのわたしにとって夜は、昼間との裏表。名前はつけられないままに、ほんの少しだけ甘い夜もあって、澄み渡るような時も、うっすらと、ひかるような時も。
それだけの重さになるまでに、たくさんのことが必要だった。柔らかい新雪に、つけられた足跡はいまでも残っている。ただそれが、風景の一部になっただけだ。
地面が、崩れたように思った日のことを、覚えている。
あのひとは、わたしの世界だった。だから世界は終わるはずなのに、すべては変わらずに、滞りなく、進んでいった。
わたしは立ち尽くして、それらを眺めていたけれど、忘れたくないと想った。
器に満たされたものを、ひとしずくも損いたくなかった。だからちいさな、部屋をつくった。
あの時に本当に望んでいたことを、思い出すたびに。器のなかでひたひたと、水面が揺れていく、
いまのわたしだったら、なんて、意味のない仮定だけれど。すこしだけ。はたはたと。蝶が胸のなかで、羽ばたくように。