すきなものごと

毎週金曜日、21:00更新。車いすダンサーです。HP:watername.net

エゴと、es(it)と。

さいきん(?)、しってる男の子がものすごいいきおいで、垢抜けだして、

「これは……?」とおもってそれとなく聞いたら、案の定、色恋沙汰だそうで。

女の子だけじゃないんだよねえと、しみじみしたのと、これの更新はクリスマスイブ、

うっかり聞いて地雷になってもアレだし、そわそわしております。そわそわ。


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きょうはちょびっとそんな気分なので、意識と無意識、あるいは、自我と感覚について、

 

これは哲学とか心理学の文脈からの流用ですが、ざっくりわけるとエゴ(自我)と、エス(名付けえぬもの)があると感じていて、

エゴは超自我と自我にわける捉え方もありますね、わたしはもいっこその下に、内観のための自我があるとおもう、言語というか水流みたいな。

エス(名付けえぬもの)は、身体感覚でありカオスであり、言語化がむずかしいもの、

ものをつくるときに、ここから汲み出してるのだなとおもうひともいます。


難しいのは、「感じる」というのは主観なので、「それそのまま」を共有することは(基本的には)できないのですよね、

たとえば哲学者のロランバルトは、論じ尽くすようなことをやったあと、晩年にはアナグラムの散文だけのものを、発表しました。

言葉の限界っていうのはつまり、それが社会で共有されているものである、というところにあって、

感覚を、そのままに言語でとりだす、ということだけなら、(ある程度言葉を扱えれば)それほど難しいことではありません。

だけれど読み取られるときには、社会的言語として読み取られるので、そこでリンクはきれるのです、

言語で無意識を汲み出しているひとたちというのは、独自のルール、わたしから見ると、そのひとだけの魔法みたいなものを持っているように感じます。

そしてそれは実のところ、くり返された修練がうみだした、無数の定理が下支えになっているのだとおもう、


無意識を照らすには、強いひかりが必要で、

その分影も濃くなる、というような、そういうのあるとおもいます。

あと所感ですけれど、くらいものをつくりつづけるのって、どこかしらがしっかりと「大丈夫」なひとにしかできないのですよ、

わたしはむしろ、あかるいものつくってるときのが「うごおお!」ってなりますけれども、ひとそれぞれかな。

わたしは「大丈夫」という感覚を、日々の生活で補填しているのだと思うのですけれど、

それがなかったら、どうなっていたことやら。想像もつきません。


コードレスで深海に潜ってゆくような、そういうのがすきなのですけれども、

おどるのっていいですよねえ、感覚をそのまま、つかえますもの。やりたいことがすこしずつ、具体的になってゆく、きょうこの頃。おわり。