幼いころから、家には山ほどの本があって、
ちいさい頃には読み聞かせをしてもらった記憶があります。
記憶に残ってるのは、十五少年漂流記。あとからよみかえすとわりと、少年たちサバイブマックス!
音として流れてくる言葉に、いまほどのイメージは立ち上がらなかったけれど、
音階にちかいもの、それがわたしにとっての最初の、本のイメージなのかも。
祖母の家には、ピアノのレッスン室があったのですけれど、生徒さんむけの漫画やら簡単な本やらがあって、
本の世界に集中してると、周りの音は消えてゆきました。よばれても気づかないような。
新井素子さん風にいうのなら、「本に淫する」といった感じでしょうか、
その感覚を味わいたくて、はじめは読みやすいもの、前述の新井素子さんとか星新一さんとか、
教室にはライトノベル??みたいなのもあったので、それも貪り読んだりとか。
活字であればなんでもいい、くらいの、それが小学校低学年のころかな、
夏休み期間には、歯応えのあるのを読んで咀嚼力を身につけよう!みたいなことをやっていた気がします。
もっともっとたくさん、するする読みたいがためのセルフトレーニング、それもたしか、低学年のころ……。
うすうすお気づきかもしれませんか、生粋の本読みというのは、知性派でもなんでもなく、ただの変態です、
就職してから、読書量がへったし、おどりはじめてからはなおのことですが、変態の名折れ……!
世で自己啓発的なものとして読書がすすめられているのを目にするにつけ、違和感がぬぐえない、
なんというんでしょうか、活字をこう、愛でるっていうかもしゃもしゃ食べるってゆうか。
あれは紛れもなく、密やかにおこなわれるべき、そういうものだとおもうのですよね。
本をたくさん読みなら「まだだ…まだまだだ……こんなものではない……!」(量の話)みたいなのがあったのですけれど、
いったいなにをめざしていたのか、でもきっと、どこかにいこうとしていたのだとおもいます。
目に見えない、ふかくふかくのこと。
そういったいみではいまでも、やってることはおなじなのかも。おわり。